bingxiang/冰箱

「ビンシャン」と読みます。中国語で冷蔵庫のことです

海を探す 1

その昔、ぼくがまだ若くてアホだった頃、ぼくは自分があらゆる国家、ぼくが生まれたあらゆる場所から自由になれると思い込んでいた。ぼくはどうしてこんなバカげたことを考えたのかわからない。だけどたぶん、ぼくは自分の中の日本的な要素が嫌いだったのだと思う。むしろぼくはこの性格や趣味を作り上げたぼくの「血」が嫌いだったということなのかもしれない。もしぼくがアメリカやイギリスに生まれていたら、もしぼくが金髪碧眼の人間だったら、もしネイティブスピーカー並みに英語が流暢だったら……そんなむなしいことを考えていたのである。

ぼくはこの自分自身で、誰でもない……オアシスの曲にあるように。たぶん、これはぼくたちが向き合わなければならない原初の、そして永遠の問い(難題)だと思う。なぜぼくはこの人間なのか。そんなアホみたいな時期を過ぎて、ぼくは哲学書を読み始めてぼくはこの視点から自分を切り離すことができないことを学んだ。少なくともぼくはデカルトウィトゲンシュタインの考え方をそうだと受け取る。ぼくは幽霊かもしれないし、肉体を伴った人間かもしれない。とにかく、リアルであろうとなかろうと、ぼくはこの人間だ。

ぼくはこの人間だ。この人間はたくさんの人、あるいはモノの影響によって成り立っている。たとえばぼくは今日日本の食事の筑前煮を食べた。いまやそれはぼくの一部だ。いまぼくはブランキー・ジェット・シティ(日本のロックバンド)を聞いている。なら、ぼくがほんとうの日本人であってぼくの考え方が日本的な要素や味を出すのも不思議ではない。でも、いまぼくは恥ずかしいことだと反省するけれど(単純に若すぎたなと思うのだけれど)、ぼくは日本的な要素を恥じてここがここでなければと思ったのだった。

最近ぼくは、夏目漱石について書いた柄谷行人の本を読む。柄谷は日本の哲学者で夏目は日本の小説家だ。いま、ぼくはぼくの中の起源/ルーツを探しつつある。どうしてこの人間はこうなったのか? 誤解しないでほしい。ぼくはぼくを否定したりしない(でも、ぼくはぼくが絶対的に正しいとも言わない)。ぼくはこの感情を説明できない。でも、いまはそんな時期なのだ。ぼくは過去の日々を振り返ろうと思う。でも、それをくっきりしたストーリーとして書くことは無理だ。記憶がモゴモゴいい始めるに従って書き続けていきたい。