bingxiang/冰箱

「ビンシャン」と読みます。中国語で冷蔵庫のことです

マインド・ザ・ギャップ 6

今日、ぼくはZOOMのミーティングに参加した。そこで、近々訪れる中秋の名月にちなんだ月に関するプレゼンテーションを聞かせてもらった。もし月が存在しなければ地球はどうなっていたか、あるいは月のどの地点に人類が降り立ったか、月にはどんなクレーターがあるか、といった話だ。どの話も実に面白く、貴重な体験をさせてもらったと思った。

そのお話があってから、ぼくはポール・オースターの『ムーン・パレス』という小説のことを思い出したので文庫本を引っ張り出してきた。実を言うとぼくはこの『ムーン・パレス』で卒業論文を書いたのだった。大学生の頃のぼくは村上春樹に憧れる青二才で、彼に憧れてアメリカの作家や詩人の作品を学びたいと思いアメリカ文学を学ぼうとしていたのだ。

思い出す。『ムーン・パレス』を愛読していた頃(まだ世界が二十世紀だった頃)ぼくは早稲田に住んでいた。四畳半のアパートで、パソコンもテレビも持たずただ音楽プレーヤー(当時はラジカセと言った)をお供にこの『ムーン・パレス』やあるいは村上春樹なんかを読みふけったことを思い出す。さすがにいまから30年ほど前のことなので、他にどんな作家を読んでいたのかはいますぐには思い出せないのだけれど。

あの頃に戻れれば……なんて思ったことはない。いや、あるとすれば「あの頃に自分の発達障害がわかっていれば、就職もうまくいっていただろうなあ。あるいは大学に残ることもできていたかもしれないし、こんな人生を歩むこともなかったのだろうな」と思うくらいか。こんな「たられば」に浸っても暇つぶしにもならないので、「いまはいま」と思い自分の「いまの人生」に虚心坦懐に向かい合うのが自分ができる最善の生き方かなあ、といまでは思うようにもなった。

でも、ふと思う。あの頃から自分はいったい何が変わっただろうかと……あの頃、ぼくは「こんな本ばかり読む自分」がいやでもっと「イケてる」(もう死語だけど)人間になりたいと思っていたのだった……言い方を変えれば「強者」「超人」「カリスマ」と、まあ何でもいいのだけれど「こんなぼく」ではない人間と言えばいいか。おかしなものだ。

いま、ぼくはぜんぜんそんな「イケてない」自分を脱せたとも思っていない。相変わらずぼくは読書と音楽を好む貧乏人で、根暗でエッチで変人だ。でも、自分の中で「まいっか、こんな自分でも」と思う心が芽生えてきたようにも思ったのである。それは「あきらめた」というか「負けた」ということかもしれない。理想の自分になることを「あきらめた」……それが「大人になる」ということなのかなあ、とも思う。

あの頃、「大人になる」ことさえ怖くて、なれる自信もなくて「子どものままでいたい」とも思ったっけ。あの不安はいったい何だったのだろう。