bingxiang/冰箱

「ビンシャン」と読みます。中国語で冷蔵庫のことです

マインド・ザ・ギャップ 1

グレゴリー・ケズナジャットという新人作家の存在を知ったのは、ぼくの女友だちが彼の小説『開墾地』を読むことを薦めてくれたからだった。ケズナジャットという人はアメリカ人で、日本語(つまり、彼の母語ではない言葉)で創作を始めたという。それはもちろん、並大抵の努力とセンスでできるものではない。その勇気にぼくは興味を抱いた。

そのケズナジャットのデビュー作『鴨川ランナー』の中で、主人公はひょんなことから日本語という言葉と出会う。そして勉強を始めて、やがて彼の中で日本に対する憧れが高まり、実際に日本を訪れるまでに至る。だがどんな異国暮らしも、厳しい現実の壁に突き当たらざるをえない。日本社会の閉鎖性(「外人」扱いされること)などのプレッシャーが彼を苛む。

ぼくがこの作品でいちばん興味深く読んだのは、主人公がふと、そんな日本での生活に疲れていた折に書店の文具コーナーで見つけた原稿用紙を買い求め、それに日本語を書きつけるところだ。日々の怒りを晴らすかのように、主人公は書くことを止めない。

そんな部分を読んだからか、ぼくも同じことをしてみたくなった。今日、近所のイオンの文具コーナーでぼくは原稿用紙を買った。思えばこんなふうに原稿用紙に何かを書くのは何十年ぶりのことだろう。ぼくも自分の中の日本語を吐き出してしまいたいと思った。

そしてこうして、ぼくは文章を書いている。最初はどうしても書けなかった。言葉そのものとそれが指し示すものが正確に対応しているのか、それが気になってしまったのだ。たとえばぼくは自分のことを指し示すために「ぼく」と書く。そうすると、ぼくという捉えどころのない存在がにもかかわらず静的・固体的な「ぼく」という言葉で言い表されてしまう。そんなメカニズムが興味を惹く。

でも、なぜ「ぼく」と書いたらそれはこの人間を指し示したことになるのだろう? なぜ言葉は考え方の異なる人の間を時にスムーズにつなぐのか。もちろん、理屈で説明がつく話ではある。だけど、それでも「なぜ生きる」「なぜ書く」といった話と同じでぼくにとっては人智を超えた謎である。

この文を書いているいま、ぼくはくるりという日本のロック・バンドの「MIND THE GAP」という曲を聴いている。ギャップに気をつけて……自分と他人、あるいは世界とのギャップ。でも、他の人なら目にしないそうしたギャップをぼくはやり過ごせず、ついつい気にしてしまう。ならばとことん気にするのもありなのかもしれない、と思い始めた。