bingxiang/冰箱

「ビンシャン」と読みます。中国語で冷蔵庫のことです

マインド・ザ・ギャップ 4

ぼくは虐待されたことはないけれど、その代わりにクラスメイトにいじめられていた。いじめとは厄介なもので、いったんターゲットにされてしまうと「結論ありき」で(つまり、もう「お前がお前であること」が気に食わないという理由で)人がぼくを嫌うようになる。したがってぼくは弁明のチャンスを与えられず、一方的にいたぶられるがままになるしかなかった。とてもつらい時期だったことを思い出せる。

「お前がお前であること」が気に食わない……そのメッセージをぼくは真に受けてしまい、「ぼくはなぜぼくでしかないのだろうか」と一時期真剣に考え込んだことを思い出す。それは十代の青年にとっては「十年早い」テーマだったのではないか。青年時代といえばまず「無条件の肯定」がどこかで与えられるべきだったと思う。でも、そんな時期にぼくはこんなややこしいことを考えていた。

実を言うと今も、ぼくは「お前がお前であること」を責められているような気持ちになることがある。「ぼくが発達障害者であること」「ぼくが男であること」といった、属性でぼく自身が一方的に判断されるということ……そしてこれは裏返すと、ぼく自身がさまざまな認知の歪み・バイアスに陥っていないか考える必要がある、という話にもなる。

ぼくは日本人なのだけれど、日々英語を学んでいる。それは、一方では「英語を話せればクールだから」といった見栄っ張りな動機がある。でも他方で「ぼくはモノトーンの景色ではない、フルカラーの多様性に満ちた世界を見たい」という気持ちもある。白と黒だけで片がつく世界認識は、とても「わかりやすい」。日本語で「白黒思考」と呼ばれるその思考のあり方は、その「わかりやすさ」ゆえの罠が存在するとぼくは感じている。

いまどきの言い方をするなら英語(あるいは外国語)を学ぶこととは、違ったOSを導入することではないかと思う。たったひとつだけの、ウィンドウズやアンドロイドといったシステムに世界を独占させるのではなく「別の」OSに場を譲ることで、致命的なエラーに陥る前に見つけ出すといったことをぼくは想定する。

そう考えていくとぼくはぼく自身の発達障害にも、「狂人」や「変人」といったネガティブな意味だけではないポジティブな意味をも見出したくなってくる。もし淘汰が必然的に行われるのなら、ぼくたちのような「障害」は端的にエラーとしてはじき出されて然るべきだっただる。でも、人間の賢明な知恵としてこうした「別の」存在のありように可能性を見出すことはできないか、というのがぼくが考えていることだ。

ぼくはこうした繊細な問題について、U2レディオヘッドを聴きながらあれこれ考えている。ぼくがこうやって書いているような無粋な説明よりも、彼らの曲はずっと洒脱にこんな現代の矛盾、難しく言えば「アイデンティティ」をめぐる問題について考えさせてくれる。でも、これについてはまた別の機会に考えたい。