若松英輔『詩と出会う 詩と生きる』と内宇宙のドライブ
実を言うと先日、詩について仲間内でプレゼンをする機会をもらった。そしてその席でぼくはこの若松英輔の仕事について教わったのだった。若松の『詩と出会う 詩と生きる』では文字通りどのようにして人が「詩と出会う」ものかが語られている。言い方を変えればどのように「詩」がぼくたちの生活の中で機能しうるか。読みながら、ここまでいまの時代において「詩」を愚直に見つめ直しそこから言葉を発する――若松的に「つむぐ」と言うべきだろうか――姿勢を保持した書き手が現れたのかと、そのまなざしの強度に文字通り感服する。まなざしの強度……その若松のまなざしは決してヤワなものではない。その強度に満ちたまなざしは物事の本質をも射抜き、見抜こうとしていると思う。凄味を感じ、そして畏怖さえ覚えたといっても過言ではない。そして人がここまで書くことに敬虔であり続けられるという事実にもしびれてしまう。まさに、ぼくなりに読者としての貧しい知識に照らし合わせればカフカやリルケを思わせる敬虔さだ。書くことを通してしか世界を捉えられず、生きることができない人間の繊細さがここにある、と。
この本の中では若松は数多くの詩人や文学者、哲学者たちをサンプリングして「詩」について語る。そうしたサンプリングされる詩たち・言葉たちを無作為に抽出するなら、たとえば岡倉天心や中原中也、正岡子規やリルケといった書き手が挙げられる。そうした書き手に寄り添い、書き手の「つむぐ」言葉を虚心に聞き取りそこから見えるものを言葉にして表現しようと若松は徹する。では、そこから見えるものとは何か。たとえば、ぼくはふだんまさにこの目を使ってものを見ている。そして、眼前にある若松の書物やパソコンのディスプレイ、スマートフォンといったものを見て生きている。だが、若松のまなざしの強度を採用して生きるならばそうした認識は「ただ表層にあるものを見ている」だけにほかならない。その眼前にある表層を超えた、本質に肉薄する観察を行わなければ何も見たことにならない、と若松なら言うだろう。「もの」を超えてその内奥あるいは高次にある存在に目を向けることが大事なのだ。
言うまでもないことを書いてしまうと、「詩」は言葉で織り成される。いきおい、ぼくたちは「詩」を読む際その言葉を単純に通過することで終わってしまう。だが若松はその読みをもう一段深めて、言葉が指し示そうとするもの(難しく言えば言葉の含意・コノテーション)に迫ろうとする。これはぼくのような実に雑にかつスピーディーに読んで1冊「消費」するくせがついている人間には耳が痛い言葉だった。ゆっくり読む……と整理すると単純になりすぎてしまうが、そうして1編の「詩」とじっくり向き合いその言葉の内奥/高次にあるものを捉えんとする。それは結果として書き手と読者たるぼくたちの対話であり、その対話を通してぼくたち自身の「内宇宙」を見つめ直す営みの謂ともなりうるだろう。「内宇宙」を見る、というと自閉的な行為と受け取られるかもしれないが、好意的に過ぎるかなとも思うけれどぼくはこれは「自分を他者として見つめ直す」という試みを推奨/推薦しているのだと受け取る。
そうして、表層にある言葉の内奥/高次を見つめる試み/営みはややもすると若松が「高次のものとつながる」ことを称賛しているようにも読める。容易に知られるように、そのようにして「高次のものとつながる」ことは「自分の小ささや無力さを思い知る」ことにもつながる。したがってここに書かれている詩論とはニューエイジ的な思想にも共振しかねない、ある種取り扱いが非常にむずかしいものであるとも言える。少なくともぼくは(科学的思考/合理主義に骨の髄まで毒されているからか)若松の詩論を諸手を挙げて受け容れることはできそうにない。だが、ともかくもここで展開される若松の敬虔な、先にも挙げたカフカやリルケが示した「祈り」にも似ている、そんな詩を楽しみ読み込む態度を軽んじたくないとも思ってしまった。ゆえにこの若松の詩論はきわめて刺激的で魅惑的な、困った1冊となってぼくの前にせり出してきている。