bingxiang/冰箱

「ビンシャン」と読みます。中国語で冷蔵庫のことです

ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』末尾の訳を翻訳してみた

A boat, beneath a sunny sky (written by Lewis Carroll)

A boat, beneath a sunny sky
Lingering onward dreamily
In an evening of July -

Children three that nestle near,
Eager eye and willing ear,
Pleased a simple tale to hear -

Long has paled that sunny sky:
Echoes fade and memories die:
Autumn frosts have slain July.

Still she haunts me, phantomwise,
Alice moving under skies
Never seen by walking eyes.

Children yet, the tale to hear,
Eager eye and willing ear,
Lovingly shall nestle near.

In a Wonderland they lie,
Dreaming as the days go by,
Dreaming as the summers die:

Ever drifting down the Stream -
Lingering in the golden gleam -
Life, what is it but a dream?


ルイス・キャロル鏡の国のアリス』巻末部の詩(拙訳)

ある一艘のボートが晴れた空の下
りゅうれいに夢みるように先へ先へと
すすんでいく。七月の夕暮れどきのこと――

さんにんのこどもたち、わたしのところに近寄る
まっしぐらに、耳と目を開いて、なんの
へんてつもない話だけど、喜んでくれて

あの晴れた日はとうに過ぎ去っていった
いつの間にかこだまも消え、思い出も失せ
のにおりたしもが秋を彩り、七月を殺すのだ

しかしまだ彼女が取り憑く、幽霊のように
もじどおり、目覚めた目では見られたことのない
べっぴん(別嬪)のアリス、空の下をゆく

かのじょたちはまだ、このお話を聞きたがる
らんらんと目をかがやかせ、耳をすませて身を
のりだして、愛らしく近寄る

おそれおおい国で彼女たちは横たわる
くりかえしすぎる日ごとに夢を見て
りふれいんする夏ごとに夢を見る

ものがたりの流れにしたがって下り
のんびりと、黄金(こがね)のかがやきの中で夢みる
だけど、人生とは夢以外のなんであろう?


※以下は蛇足ながらメモです。

前に『不思議の国のアリス』の出だしの詩を翻訳してみたところ、それが少し関心を持ってもらえたようなのでそうなると「調子に乗って」しまうのがぼくという人間の常でして、ならばルイス・キャロルの別の詩なり文章なりを訳してみようかと思ってしまいました。それで最近は図書館に行きルイス・キャロルに関する本を借りて読んでみたりしています。ゆくゆくはあらためて『不思議の国のアリス』を再読することも考えているのですが、そうしてルイス・キャロルの書いたものを読み進めていくとこれが「噛めば噛むほど」に面白く、大げさな言い方になりますが彼の沼に「ハマって」いきそうな気さえしています。昔はぼくはこの「噛めば噛むほど」出てくるルイス・キャロルの滋養・旨味というものがこれっぽっちもわかっていませんでした。でも、当たり前ですよね。ぼくはしょせんそのルイス・キャロルが忌み嫌ったという「少年」「野郎」でしかなかったのですから。

今回訳してみたものは、『鏡の国のアリス』の末尾にある詩です。英詩にはあるトリックが隠されています。それぞれの行の頭の文字をつなげて読んでいくと、アリス・リデルの名前が出てくるというものです。「ALICE PLEASANCE LIDDELL」。専門的な言葉では「折句(おりく)」「アクロスティック」というらしいのですが、ルイス・キャロルがその語りにおいて十八番/得意技としたとされる技巧/テクニックはここでも見事に発揮されています。こうした詩を訳すとなると実に悩ましい。そのマニアックな技巧をそのまま日本語訳に置き換えるとなるとどうしたって「この詩が持つほんらいのみずみずしい叙情」を犠牲にせざるをえません。そこでぼくも悩みました。それで、最初は「まあいいや。日本にはこの名作に魅せられた日本語の達人たちがたくさん(プロ・アマ問わず)いる。彼ら・彼女たちの達意の翻訳、見事な訳を読めばそれでいいわけだから、ぼくはシロウト仕事に徹しよう」と思っていました。

ですが事実は小説よりも奇なり。そうして最初の1行を訳してみてひらめいたアイデアを元に、「まあぼくの訳がクラシック/スタンダードになることは未来永劫ありえないのだから、好き勝手に訳しちゃえ」と思ってしまったこともあって結果として、こんな訳ができあがりました(ぼくの和訳にも「折句」が含まれています)。ぼくとしては詩が持つ上品な切なさというか、やがて失われゆくアリス・リデルという少女に内在する幼さ(イノセンス、と言ってもいいのかもしれません)への憧憬について訳してみたつもりです。そしてそうしてぼくたち自身が否応なく「いま」という時間をあとにしてどんどん前へと歩まなければならない、そんな激しい時の移ろいとそれにともなった忘却という現象の悲しみについても移し替えてみました(もちろんオリジナルの詩から逸脱しすぎて、お茶会よろしくめちゃくちゃにならないようにして)。それが成功しているかどうかは読者諸賢、皆様の忌憚なき判断をあおぎたいと思っています。

今回はこれらの訳を参考にさせていただきました。ありがとうございます。

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