bingxiang/冰箱

「ビンシャン」と読みます。中国語で冷蔵庫のことです

マインド・ザ・ギャップ 3

ぼくは間違っているのだろうか。今朝、ぼくは頭の中であれこれアイデアを転がしていた。すべては順調に行くように思えた。だけど、いざこの原稿用紙を机の上に広げて何か始まりを書き出そうとして、ぼくはさっきまで羽音を立てていたアイデアが静まり返ってしまったことに気がついた。ひらたく言えばぼくは何も書けなくなってしまったのだ。

これについて考えるに、ぼくは「何かを書く」と意気込んで始めようとすると「力んで」「気負って」しまい、逆説的にいつもの力さえも出せなくなってしまうようだ。もっとぼくは「気負い」のないジャンクな言葉をゴチャゴチャと書き込んで混沌とした世界を表現したいくらいなのに、なかなかうまくいかない。それが人生、なのかもしれない。

しょうがないのでロニ・サイズを聴きながら、ふと「なぜそもそもそんなゴチャゴチャした言葉を並べたいと思うのか」を考えた。そして、ぼくはどうやら自分の中に2人の自分がいることに気がついた。つまり、片方には清らかな自分がいる。公明正大というか、どこに出しても恥ずかしくない「善」そのものの自分だ。そしてもう片方に、「善」と対を成す「悪」の自分がいる。その自分はエッチで、ずるくてゴチャゴチャした自分自身でもある。

これを書いているこのぼくはそんな「善」と「悪」の「ギャップ」に立ち、もちろん「善」に憧れ完全無欠な存在になりたいと思うものの遂にそうなれない。でも同時に、「悪」こそ人間の本性なのだからと露悪的に生きることをもぼくは良しとできない。それもまた人生、なのだろう。

こうした「ギャップ」を、ではぼくは埋めることを目指すべきだろうか。しかしそれには気が遠くなるほど長い時間がかかる。一生かかっても無理かもしれない。ぼくはかつてこの「ギャップ」に耐えきれず、誰かを闇雲に信じ込むことで解決しようとした。誰かの言ったことをまるごと信じ込むことで、自分の中の矛盾が消える……でもこの話はまた別の機会にしたい。

今もぼくは自分の中の矛盾に苦しむことがある。エッチな欲望に悩み、かと思えば哲学書を読んで悟りでも啓いたような自己満足に浸っている。ぼくは日本語を使う傍ら英語でもあれこれ表現したりしているのだけれど、これにしたって「ギャップ」を生きているということにならないだろうか。考えれば考えるほどぼくという人間は謎めいてくる。

でもおかしなもので、この話を他の友だちにすると「みんなそうだよ」「誰だって矛盾してるもんだよ」と言われてしまう。そしてそれはあながち嘘でもないようなのだ。なら、みんなとっくの昔にぼくが直面してうんうん苦しんでいるこの「ギャップ」を解決してしまったのだろうか。だったらそれは人生のどの段階で学ぶものなのだろう?

ああ、ぼくは今年で48になるというのに、未だにこの簡単な問題につまずいてしまっている。でも、それも人生なのかもしれない。